雪と雪と雪と雪
雪田雪は朝が嫌いだ。一日の始まりというのはいつだって未知の可能性をめていて雪田雪を不安にさせる。何気ない日常の一ページはいつだって恐怖を孕んでいる。朝起きるとすぐに今日も何が起こるか分からないという不安に苛まれるのは大きなストレスであり、それは夕闇に感じる安心感とは対極にあるものだった。昨日だって何も起こらなかったし、今日だってきっと何も起こらないことは雪にも分かっている。それでも今日何も起こらないという確証なんていうものはどこにもないのだ。不安は幸せであるべきの一日を苛む。1日が無事に終わるという保証はどこにもないのだ。同居人の春夏冬閖が存在するうちは、特に。
雪田雪はイレギュラーを嫌う。流されやすい自らの弱さも嫌う。雪の一日が終わるのは毎晩今日自分がしたことが正しかったのかどうかを考えてからであり、それは無意識のうちで彼の日課になっていた。特に行為の後春夏冬閖が隣で眠るベッドにおいて、雪は自らに問いかける。これで正しかったのか、これが自らの正解なのかどうか。
「昨日全然眠れなくてさ」
友人が雪に投げかけたその言葉は曖昧な煙となって宙を漂い、そして消えた。友人がその後に何を言おうとしているかはすっと入って来ず、雪は何も返事をしないまま教室から見える濁っている冬の空を見上げていた。
今日も教室に春夏冬閖の姿はない。
クラスメイトは閖が登校していないことに興味を示す様子もない。部活のために持ってきた楽器の入った黒いケースが無機質に机の横に佇んでいた。楽器が閖に溶けて変わり、閖が机に頬杖をついてこちらに微笑みかけてくるビジョンが見えて、雪は頭を抱えた。頭の奥の鈍い鈍痛はまるで目を覚ませと雪の頭を揺らすようだった。
「今日雪、降るらしいぜ」
友人の言った言葉はまたもや雪には届かなかった。今雪が必要としているのは自らの目を覚ましてくれるような強い刺激だった。不調の原因は分かっていた。
ここ数日、一週間近く閖と寝ていない。
原因は不明。それがどうして心に引っかかるのかは雪にも分からなかった。今まで頻繁に閖と寝ていたのがおかしかったのかもしれないが、理解不能な閖の行動は今回特に強く、雪の心に蟠りを残した。
まるで残像のようだ。閖の影はいつも雪に付きまとい離れない。遠い昔に聞いたオカルト的な話のように閖の姿が脳内にちらつく。忘れたと思う頃に思い出してしまうのだ。愛とは遠く離れた地平に存在するこの感情に名前をつけるなら、雪はそう考えようとしてすぐに考えることをやめた。その問いにはいつだって意味はないから、そして答えなど見つかるはずがないから。雪はただ無を思って空を見上げる。
「一限、移動教室だってよ」
遠くのクラスメイトの声に雪ははっと目を覚ましたような気持ちになった。気怠そうに席を立っていくクラスメイトにつられるように雪も席を立つ。家庭科と表紙に書かれた教科書とノート、うすい筆箱とスマホを持って友人達と並びながら教室を出ていく。雪の心の蟠りはまだ消えていなかった。これから何かが起こるような、そんな危険を孕んだ信号が雪の頭を刺激する。
雪田雪はイレギュラーを嫌う。そしてその本当の意味をこれから知ることになるのだ。
…
家庭科室があるのは本棟から離れた西校舎だった。階段で一階下がり、連絡通路を歩いていく。友人達より一歩後ろで歩いていた雪に異変が起きたのはちょうど西校舎に入る廊下を歩いていたときのことだった。友人達が前で談笑している中雪は一人会話には入らず俯いて歩いていた。にゅっと伸びた腕に掴まれた刹那、何が起こっているのか理解する前に入ったこともない西校舎の教室に引きずり込まれる。雪を引っ張るその強い力に抗えず転びかけながら教室に入るとそこは電気がついていなくて、どんよりと暗い雪を含んだ空の下、薄暗く幕を下ろしていた。「なに、これ」と言いかける前に胸首を掴まれ唇を強く重ねられる。割り入れられた舌が雪の口内を蹂躙する頃、クラスメイトは「あれ、雪がいない」「トイレでも行ったんじゃねーの」と話していたことを雪は知ることはない。厚い舌とピアスの感触に舐られながら雪は一つの答えに辿り着く。唇を奪われた相手の正体を、目を見開いた先にある黒くて長い、まっすぐな細い髪を。
「閖っ!」
舌を噛んで無理矢理口を離すと、そこに居たのはやはり居るはずのない春夏冬閖の姿だった。閖は猫のように目を細めて「雪、痛いよー」と小さなピアスがついた舌を出しながら笑っている。
「何してんだこんなとこで!俺これから授業がっ」
「雪」
閖はするりと雪の背後に潜り込んでドアをそっと締める。音がしないように上手に、密やかに。その瞬間閉じられた空間で雪は閖に出口を塞がれた。全身の毛が逆立つように嫌な予感がする。閖の口が動く前に雪は何か言葉を発そうとしたが、先ほど口づけをしたにも関わらずその口は乾いていてうまく動かなかった。閖は口角を歪ませ不敵な笑みを浮かべている。その瞳は光を映さない。閖は音も立てずに雪に近づいて耳元でそっと囁いた。透けそうに掠れた、聞き取れるかも危ういくらいの小さな声で。
「セックスしよー」
その声はあまりに妖しく悍ましいものだったから雪は思わずぞわりと全身に鳥肌が立った。閖の声は死刑宣告のそれに良く似ている。聞いたことはなくとも、死刑宣告とはこういうものなのだろうなと雪は思った。
胸元を掴まれ唇を重ねられながら後ろに後ろに閖に押されると雪はとうとう窓に身体をぶつけた。鈍い音がする中そのまま角度を変えられて近くにあった長机に腰を強く打つ。その痛みに思わず眉をひそめたが閖のキスはなお熱を持って続いている。閖は目を瞑ってキスをしながら器用に雪のベルトを外していく。それを止めようと手に持っていた教科書や筆箱を落としてでも抵抗すると、今度は閖が雪の舌を甘く噛んだ。その痛みに力が緩まると一気に制服のスラックスを降ろされる。雪なその時ようやく襲われているという感覚に支配された。これがもし事件になるならばレイプされかかったと言っても嘘にはならないだろう。閖の力はその細い身体からは想像もできないほど強くて雪の抵抗などものともしていなかった。下着に手を突っ込まれると緩く反応しかかった性器に冷たい手が触れた。
「え、雪なんで反応してんの?すごいノリ気じゃん。俺驚いちゃった。雪嫌がると思ったのになー」
「嫌がってるって!お前が触るから…てかこんなのおかしいだろ!そもそもなんでこんなところ、鍵持って…てか俺これから授業あるし、」
「えー。雪はクソつまんない授業と俺とのセックスどっちを選ぶの?まさかクソつまんない授業な訳ないよね?」
閖は下着の中を弄って反応しかかっている雪の性器で遊ぶように手を動かす。雪の太腿には既に反応している閖の性器が押し付けられる。
「俺こんなになっちゃった。最近雪とセックスしてなかったからね。雪も久しぶりで興奮してるんじゃない?こんなところで、どう?罪悪感とかある?恥かしさとか、背徳感とか?どう?」
「罪悪感もクソもないだろ…どっちかというと恐怖だよ」
「何が怖いの?バレちゃうこと?それを興奮に変えられなきゃ人生つまんないよ?雪は早くそういうのを知るべきだと思うなあ。てか言わないだけで絶対興奮してるでしょ、雪ったらいけないんだから」
「一生知りたくない!」
閖は雪の前で屈むと下着を掴んで一気に下ろした。目の前に苦しそうな性器が現れると躊躇なくそこに舌を這わせる。その部分的に暖かい感触に雪はまたぞわりと身体を震わせる。見せつけるように下から舌で性器を舐め上げてく閖を見下ろしながら雪は「睫毛が長いな」などと考えていた。始業のチャイムが鳴っても行為が中断されることはない。むしろそれは二人の授業の始まりを知らせるように甘美で悲しい音を響かせた。
ピアスを押しつけるように裏筋を舐め上げていくと閖は上目遣いに雪を見上げた。その瞳は一瞬だけ三白眼のように見えて雪はその顔の美しさに思わず目を逸らした。強調され狭まった二重の瞳が媚びるように雪を見つめる。このまま見られ続ければ本当に全てを喰べられてしまうと雪は思った。今度は舌を出して性器全体を口で包まれる。口を窄めて性器全体を刺激されると頭がくらりとするほど気持ちが良い。前後に頭を動かしながら舌だけは器用に別に動いていて雪はその技術に思わずため息をつきたくなった。閖には言ったことがないが、ピアスが時々性器を刺激してその違和感とも快楽とも言える不思議な感覚が雪は好きだった。閖にしか成せない芸当はいつの間にか雪を虜にする。特に唇が竿首に当たって引っかかる瞬間に雪は思わず射精したくなるくらいの快楽を覚えた。閖の喉がどうなっているのか雪はいつも不思議に思っていた。どうすればそんな喉の奥まで性器を押し込めるのか、喉の奥に性器が当たる瞬間があまりに気持ちが良くて雪は不本意ながらも閖の喉に性器を押しつけるように腰を揺らした。閖は流石に苦しいのか目に涙を浮かべながら頭を動かしているがそれすらも興奮の材料になっている。射精をしようと声を漏らしたその瞬間、閖は性器から口を離す。
「閖っ…あ、なんで…っ」
「今日は口じゃダメ。こっちに出して」
閖は雪の手を自分のベルトに誘導させる。雪は誘惑に勝てずそのベルトをするりと外した。もうここまで来て戻れないことは分かっていたから罪悪感は無かった。何より早くこの欲望を開放してしまいたくて必死だった。閖は雪を一歩前に歩かせ、くるりとこちらを向かせるとその隙間に入り机に腰掛けて片足に下着を引っ掛けたまま脚を開いた。
「ほら、ここ。忘れちゃった?」
「忘れるわけ、ないっ…」
閖にキスをしてはち切れそうな性器を後孔に押しつける。開いた孔は雪の性器に口付けるようにぴっとりと雪を迎え入れた。そのまま身を埋めると元からそうなることが決まっていたように後孔は形を変えて雪を受け入れる。雪は閖の脚を掴んでそのままぐっと腰を進めた。暖かく柔らかいそこは女のもののように簡単に雪を包み込む。全てが埋まると雪は思い切り腰を動かした。すぐに結合部が音を立て情事を盛り上げ始める。雪の脳内には今頃友人達が授業を受けている中自分がこんなことをしているという背徳感が芽生え始めていた。しかしすぐにそんな考えは快楽の中に消え、雪の意識は情事とその相手である閖に集中し始める。
「あっ…はぁ、はっ、あっ…ん…雪、きもちいよ…」
「はぁ…あ、俺も…っ」
「すごい、雪の固くなってる…っ。いつも、より興奮してる…?」
「わかんない…っ、もう、なんもわかんない…」
一つになった二人はギシギシと机を揺らして情事を続ける。既に射精感が込み上げていた雪の絶頂は近かった。女にするように閖の脚を持ち上げ結合部をより深めて腰を動かすと脳内がとろけそうなほど気持ちが良かった。ここが学校で、さらに言えば授業中だということを忘れるほどに情事にのめり込んだ雪と閖は声をひそめることも忘れて快楽に浸った。確かにいつものセックスよりも盛り上がっているような気もするが、雪はそれを認めたく無かったため口にすることはなかった。
ほどなくして射精をし、性器を引き抜くと雪は初めて窓のカーテンが閉まっていなかったことに気がつく。今更気づいても遅いと思い、カーテンを閉めようとする手を止めた。
「はい、ティッシュ」
「なんでそういうとこばっかり準備いいんだよ…ゴムも持って来てくれれば良かったのに」
「だって中出ししてほしかったんだもん。せっかく学校でセックスするのにゴムなんて味気ないでしょ、でもそうだなあ…理科準備室にゴムが落ちてたって話題になるのは悪くないかも。絶対生徒指導入るよ、俺は行かないけど雪は一人罪悪感に浸ることを考えると興奮する。どう?次はゴム残そうよ」
「絶対しない。これが最初で最後」
「えー。興奮してたくせに。このために雪を一週間我慢させたんだからさあ、もっとこの場を楽しめば良かったのに」
まあ楽しんでたことは十分わかってたんだけど。
閖の言葉に雪はため息をついて制服のスラックスを履き直す。閖も後孔から溢れる精液を拭いて服を着始めている。
「ねえ雪、屋上行こうよ。まだ授業終わんないしさ、俺もすることないし。まさか雪も今更トイレ行ってたとか言って授業戻れないでしょ?」
「まあいいよ…閖に付き合う」
「やったー。じゃあ西校舎の屋上行こうよ。今ならきっと誰もいないし」
身だしなみを整えた雪と閖はこっそりと教室を出る。その際雪は教室に鍵がかかっていなかったことを知って青ざめることになるが、それが閖の計算のうちだということを知ることはない。
…
教室の前で屈んだり足音を消そうとしたりと皆にばれないように配慮をしながら屋上に着いた頃には雪はすっかり疲れ切っていた。まだ一時限目だと言うのにこれからの授業を受ける気力がわいてこない。雪は閖に渡された煙草を一本吸った。匂いがついてまずいことになることは分かっていたが吸わないことには収まりがつかなかったのだ。二人しかいない西校舎の屋上は酷く寒い。制服の上にセーターだけを身につけていた二人はその寒さにがたがたと震えながら煙草を吸った。西校舎の屋上からはグラウンドはもちろん、学校中の景色が見渡せる。閖は吸い終えた煙草を人差し指と親指でぴんと柵の下に投げ飛ばした。下は花壇になっているのですぐに見つかることになるだろうが、学校でそんなことは日常茶飯事であり、今更気にするようなことではない。雪は白くなった息を吐き出して震える声で閖に言った。
「今日、雪降るらしいよ」
つい先程クラスメイトが言った言葉がなんだか現実味を帯びて来たので雪は敢えてそれを口に出した。閖はつまらなそうにポケットに両腕を突っ込んで景色を眺めている。「へー」くらい言えばいいのに、と雪は思う。しかし閖のそういうところが嫌いではないと思う自分もいることに気がつく。雪は煙草を落とし靴の底で火を消した。その時、どんよりと暗い空から一片の光が差すと共に雪が降り出す。
「ほら、雪」
「ふーん。もっと寒くなるじゃん。俺帰ろ」
「本当にするためだけにここに来たの?」
「そうだよ。だからもう興味なくなっちゃった。雪にも。あ、雪のことじゃないよ?降ってくる雪の方にね」
閖は屋上のドアの方に向かって歩き出す。雪はもう一本貰っていた煙草を吸いながらその後ろ姿を眺める。
雪は閖の気まぐれに付き合うことを嫌だと思わない自分に気づくことはない。ただ、雪が降る中一人ではあまりに寂しいと思って、二本目の煙草を靴で揉み消して後ろを着いて行った。屋上にいたから授業の終わりを告げるチャイムが酷く大きく鳴り響いて、雪は余計一人でいることが嫌になった。
今さらセックスをした後で友人達に会う気にもならない。しかし二時限目は出なくてはいけないという確固たる意志が雪にはあった。閖の姿は階段の奥に消えている。雪はそれを追いかけず本校舎へと繋がる廊下へ向かった。閖は寮に帰るのだろう。どうせ夜には顔を合わせることになる。
気まぐれな猫のように閖は事を終えるとすぐに消えてしまう。それを追いかけないのは二人の暗黙の了解になっていた。閖が本当は何を考えているかは雪には分からない。けれど、今はそれでもいいと思った。触れると消えてしまう雪のように儚いその愛情に似た何かが事を終えた途端閖の中でふっと消えてしまうのだろう。二人の関係は雪に似ていると雪は思った。気まぐれに降り出してはすぐに溶けて消えてしまう。
けれど、積もった雪はしばらく消えることはない。そういう何かを雪は漠然と思った。そしてすぐに非日常に浸ってポエムを考えるのはもうやめようと思って、教室に帰った。
…
教室に入ると友人達は何も変わらない顔で雪を迎える。
「煙草くせーぞ。サボり?」
「ずりー!俺もサボれば良かった」
しかしそんな言葉は雪には届かない。雪は別れた閖の背中を思った。意味もなく、ただ突然に。
「そういえば、雪、降ったよ」
雪はその言葉を閖に言った時のように繰り返した。その言葉はまた深く友人達に届くことはない。そういうことの繰り返しが薄っぺらな友情をさらに引き伸ばして熱した飴のように薄っぺらくしていく。そういうつまらないことを考えるのをやめて雪はまた閖の背中を思う。
その背中が寂しそうに見えたのは、きっと閖の気のせいではない。
雪田雪はイレギュラーを嫌う。しかし心のどこかで今日みたいな日があってもいいなと思い、そしてすぐにその考えをかき消す。
愛(と言っていいのかは分からないが)と雪とはよく似ている、と雪は思う。外に雪が降り始めたことでクラスメイトはそれぞれ会話に花を咲かせている。
雪は閖を思う。その寂し気で悲しい背中を。自分の知ることはできない何かを。
p.s
閖の背中には理科準備室の机のせいで大きな痣が出来ましたとさ。そりゃそんなとこでセックスしたら痣もできるよね
お死枚