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午後三時、猫たちの冷ややかな戦争〜無力な傍観者を添えて〜

 午後三時の学生寮は深夜の冷ややかな静けさを彷彿とさせるように無音だった。休日には中々取れない各々の時間を楽しむため皆外出を楽しんでいるのだろう。普段は煩い近隣の部屋からは物音一つしなくて、それは現在の雪田雪に逃げ場がないことを物語っていた。
「雪ちゃん、一回でいいんだって」
 先程遊びに来たいと連絡を寄越した逸時志麻を部屋に招き入れた時からこの緩やかな戦争は既に始まっていた。同室である春夏冬閖が出かけていることを良い事にこっそり部屋に招き入れたことが間違いだったと雪は自らの無警戒さを恨んだ。どうせ最近手に入れた音楽雑誌を見たりスマートフォンのゲームでもして遊ぶのだろうと考えていた雪に罪はない。暇だったし後輩である志麻と時を過ごすのは楽しいし高校生らしい健全な考えだった。全てにおける悪を背負っているのは志麻の方だったから誰が雪を責められるだろうか。彼らは純真に高校生で、そしてどうしようもなくまた愚かに高校生であったのだ。
「俺と寝てくださいよ」
 ドアを開いて誰もいない自室に招き入れた瞬間口を開いたのは志麻だった。腕を後ろで組み、首を傾げかわいらしく無邪気に雪を見るその表情には醜悪な欲が混じっていることに雪は気がつく。細めた目をゆっくりと開き、志麻は雪の感情を探るように目を覗き込んだ。心の底まで見透かされるようなその悪意の篭った瞳に雪は思わず身動ぐ。一歩下がった雪とは対象的に志麻は足を一歩進める。今まで何度も友人を招き入れたはずなのになにか聖域に足を踏み入れられるような恐怖を覚えたのはこれが初めてだった。志麻は相変わらずにこにこと不気味に微笑んでいる。黙っていても場の空気がどんどん悪くなる気がして雪は口を開いた。
「何をいきなり、冗談だろ?」
「冗談じゃないっスよ、雪ちゃん」
 この表情が冗談に見える?
 志麻の笑顔から雪は言葉にならない強い感情を汲み取り、そして今度は志麻の方へ一歩足を進める。何かの冗談であって欲しい、しかしそれは冗談ではないことは雪にも分かっていた。しかしこのまま志麻に帰れというわけにもいかない。そこが自分の悪いところだとは自覚しつつもどうすればいいのか分からなくなった雪は志麻と対面しながら黙り込んだ。志麻から顔を逸らしていると、唇に思いもよらぬ衝撃を感じて雪は目を見開いた。少しだけ背伸びをした志麻にキスをされながら体を押され、二人から近い方にあった閖のベッドに体を押し倒される。閖のベッドに志麻に押し倒され雪は温い罪悪感を感じる。ここではいつも閖とセックスをしているからだ。濡れた唇を割り開かれるとぬるりと志麻の厚い舌が入り込んでくる。閖のものとは違う絡ませ方に雪は驚き、そして何とかやめさせようと肩を掴む頃にはベッドで志麻に馬乗りになられていた。志麻からは閖とは違う香りがして雪はなんだか閖のベッドを汚しているような感覚に襲われた。志麻の身体を押し退け露骨に拒絶をする以外の方法を考えているうちに雪はいつの間にかされるがままになっている。志麻の唾液を飲み込むと雪はいよいよ自分が駄目になっていく気がした。ああ、これじゃまた何時ものように駄目になってしまう、と。
 口を離した志麻は雪の腰辺りに跨りながら唾液で濡れた唇を拭った。自信満々に自分を見下ろす志麻が閖と重なって見えて雪は辟易とした。これではいつもの休日の午後三時と変わらないではないかと。相手が変わっただけですることは変わらない。何とかこれ以上はさせまいと雪は思った。裏腹に志麻は雪に抱きついてやわらかいものにするように首筋をそっと舐めあげる。その感触に思わずぞわりと肌が粟立つも、雪は志麻の肩を掴むだけで拒絶することはできない。その中で必死に「志麻、やめろ」と声を絞り出す。閖を思い出して自身が反応し出したらそれこそもう終わりだと雪は思った。
「なんでっスか?いつもこういうことアイツとしてんでしょ、俺知ってるんスよ」
「いつもは、してない」
「俺、見てたんスよ。前アイツと雪ちゃんが西校舎の理科準備室でやってるとこ。カーテン閉めないから東校舎の廊下の隅から丸見え。アイツの脚持ち上げてずこずこしてるとこ、全部見えてましたよ。後ろからしか雪ちゃんのこと見えなくてアイツの顔ばっかり見えて、そりゃもう最悪ですよ。雪ちゃんも場所考えた方がいいんじゃないスか?俺の他に気づいてた人はいないと思うけど、今度はいつ誰に見られるか分からないっスからね?」
 耳元で囁く志麻の声に雪は自分の心臓がどくどくと鼓動するのを感じた。志麻の言ってることは本当で、間違いなく正しくて、あの場で閖の言葉に流された自分の愚かさに羞恥を覚えたからだ。
「あ、心臓どくどく言ってるー。雪ちゃん動揺してんスか?罪悪感感じるなら最初からやらなきゃいいのに。どうせアイツになんか言われたんでしょ」
 悪戯っ子のように志麻は瞳を歪ませて笑う。笑いながらも刺すように自身を非難する瞳に射抜かれて雪は視線を逸らした。
「なら俺としてもいいじゃないスか。一回だけ、ね?誰にも言わないスから。理科準備室のことも、今日のことも」
 志麻は薄い雪の上着を捲りあげ上半身を露わにさせ、スラックスの上から雪に触れる。誘惑するような視線は閖に似ているようで全く異なっていて、雪はどうしようもない気持ちになった。黙っていると志麻は雪のベルトに手をかけ、かちゃかちゃ音を立てながらそれを外していく。その頃雪の脳内は"諦め"に支配され始めていた。このまま志麻を拒絶して大事な後輩を失いたくはない。そのためには不本意ではあるが志麻と寝るしかないのではないか、と。いつも通りならどうせ閖は夜まで帰ってこない。都合の悪いことは起こらないだろう。そうやって無理やり理由付け、雪はこの場をやり過ごそうと思い始めていたのだ。このまま志麻を拒絶するより受け入れてしまった方が楽なのではないかと。こうすれば自分が失うものはないのではないかと。
 ドアが開いたのは雪が諦めの意思を示し志麻の肩から手を下ろし、志麻が舌なめずりをして雪のスラックスのチャックを下ろした瞬間だった。一瞬にして二人の視線がドアに注がれる。そこから姿を現したのはあろうことか春夏冬閖の姿だった。コンビニらしきビニール袋を片手に部屋に入ってきた閖は一言雪と馬乗りになっている志麻を見て「は?」と声を漏らした。
「は?何やってるの?」
「閖、これは、」
「なんでこいつが帰ってくるんスか!?部屋に呼ぶって普通は帰ってこない時でしょ!」
「俺がそんなの知るか!」
「後ちょっとだったのに!何なんスかほんと!ありえないんスけど!なんで今帰ってくるんスか!」
「だから俺がそんなの知るかって!」
 ビニール袋をドアの前で手から落とし、ゆっくりと二人に近づく閖は「何なのこれ?本当に」と二人に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。
「閖、これはっ」
「退いてよ、てか俺のベッドで何してんの?気持ち悪いんだけど」
 二人の服を掴んでベッドから引き摺り下ろした閖はベッドから落ちて床に座り込む二人を冷ややかに見下ろしながらそう言った。
「何してんのか見て分かんねーのかよ。タイミングわりーんだよこのブス!」
 志麻は立ち上がり閖を上目に睨みつけながら罵声を浴びせる。雪はまだ乱れた服で床に座り込んだままだ。
「あ?」
 今にも人でも殺しそうな目で志麻を睨み返すと、閖は志麻の服を掴んでベッドに押し倒し志麻の頬を張った。負けじと志麻も爪を立て閖を引っかこうとし、さながら二人のキャットファイトが始まる。
「人のベッドで何汚いことしてんだよって聞いてんだよこの売女」
「もっときたねーこといつもしてんだろブス!なんかこのベッドくせーと思ったらアンタのかよ最悪だよ!」
「臭いのはお前だろケツからドブの臭いがするよこのドブネズミ。人のベッド汚した上に人のものにまで手出すとかどういう教育されてんだろうね。親の顔が見たいね」
「アンタさえいなきゃ雪ちゃんは俺のものになったんだよ!アンタさえいなきゃ!」
「俺がいてもいなくても雪はお前のものになんかならないよ。ドブスだから」
「ちょっと二人とも落ち着いて…そういうのはやめろって…」
 揉みくちゃになった二人はベッドを転がり落ち床で志麻が上になったりベッドの上のカッターを持った閖が上になったりして乱闘が続いている。二人を止めようとした雪は自分のベルトが外されスラックスが脱がされかかっていることに気がついて急いでベルトを締めた。カッターで切られた志麻の身体からは薄い血が流れているし雪の顔は殴られて赤くなっている。頰には志麻につけられた引っ掻き傷もあった。スラックスをきちんと履いた雪が二人の間に割って入ると二人はようやく喧嘩をやめた。傷だらけになった二人はまるで喧嘩の後の傷ついた猫のようだった。二人はまだふーふーと荒い息を漏らしている。睨みつける瞳には闘志が宿っていて、雪は自分のせいだとは分かっていても溜息をつきたくなった。
「志麻、今日は帰ってくれ」
「俺はまだ諦めてませんからね」
「二度と来んなドブス」
「アンタのくせーベッドはもう使わねーよブス!」
「二人とももういいから…な?」
渋々志麻が部屋を出ていくと漸くこの戦争に休戦礼が出された。部屋を出ていく時の志麻の瞳からして戦争が終わる日は来ないのだろう。雪はため息をついて、自分のベッドに腰を下ろした。志麻に流されなかった自分も、閖を見て反省に近い感情を持った自分にも嫌気がさした。
「雪、歯磨いて」
「なんでだよ」
「どうせあのブスにキスでもされたんでしょ。今からセックスするから歯磨いて来て」
「何で今するんだよ…気まずいだろ」
「あいつに出来なかったことを今からしてやるの。早くして。音聞かせてやるから」
「あのなぁ…お前、そういうとこだぞ」
「流されかかった雪には言われたくないね。ほら早く歯磨いて!」

 その頃隣の自室に戻った志麻は頭を掻きながら部屋に帰って来ていた大方率と会話を交わしていた。
「なんか隣からすげー音聞こえたけどあれ志麻?」
「すげーいいとこまで行ったのにアイツに邪魔された」
「アイツって閖さんのこと?」
「あのブス以外いないだろ」
「てかすごい傷。猫とでも喧嘩してきたの?」
「そんなもんだよ」
「俺はさっきまでおっさんと寝てた。今日掲示板に書き込んだ時めちゃくちゃ反応きたんだぜ。三十五件。過去最高記録」
「あーもう、そんなことどうでもいいからセックスしようぜ。あのブスに聞かせてやる」
「俺さっきしてきたばっかで疲れてんだけど。三回もしたんだよ。さすがにもう無理」
「そんなんどうでもいいから服脱げ!ほら、今からやるぞ」
「疲れてるって言ってるのに…」
「どうせあのブスも今からやるんだ。雪ちゃんと。そう思うと腹わたが煮え繰り返りそう」
「付き合ってもいいけど俺あんまり動かないよ」
「俺が動くからいい。率の身体だけ借りるから」
 二人の戦争はまだ終わることはない。ベッドを揺り動かすぎしぎしという乾いた音だけが共鳴するかのように隣同士の部屋に響いていた。午後五時の甘い鐘の音は四人の耳には入らない。
 二匹の猫の鳴き声は良く似ている。別室で同じように猫の交尾が行われていることを二人はすぐに知ることになるが、そんなことは二人の戦争に微塵も関係することはない。
 壁一枚隔てた部屋からは猫の鳴き声がする。

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