よく嗅ぎ慣れた香りが雪田雪の鼻を掠める。香りの元は雪の後ろでベッドに俯せで寝転がりながらついさっき先端に火をつけた春夏冬閖の愛煙する煙草からであった。先程徐に雪の部屋を訪れた閖は興味もなさそうな音楽関係の雑誌のページをぱらぱらとめくりながら流し見をしている。
「部屋で吸うのやめろって言わないの?」
先に口を開いた閖は雑誌から目を離さないまま雪に問いかける。
「閖が知らないだけで他の奴らだってみんな吸ってるよ」
「そうなんだ、ちょっと前までうるさかったのに。流されやすいの。雪って」
そういうとこだよ。
閖は煩わしそうに天井に向かって吹き出した煙を一瞥もせずにまたページをめくった。雪が見ていないのを良いことに灰をベッドの淵に叩いて落とし、もう一口紫煙を燻らせる。
「雪も吸う?」
「じゃあ一口」
「やっぱ雪にはあげない」
「寄越せって」
わざとらしく腕を交差し煙草を雪から遠ざけ、自分と向き合う雪を見下しながら閖は微笑む。閖を睨みつけた雪は諦めてスマホに目を向け人差し指で耳の上を引っ掻いた。
「灰皿、ある?」
「あるわけないでしょ」
「じゃあ雪、見てて」
そう言われ閖の方を振り向いた雪が見たのは煙草を下に向けながら自らの顔より高い位置に持ち大きく舌を出した閖の姿だった。
「ほら、いくよ」
舌を出し、呂律の回らないまま閖はそう言った。次の瞬間雪が聞いたのは火と水が触れ、消える時のじゅっ、という嫌な音だった。信じられないことに勢いよく閖の舌先に押し付けられた煙草は煙を立たせながらしっかりと火が消えている。唖然としながら閖を見上げる雪を見つめながら閖は舌舐めずりをした。
「まずいけどね」
何事もなかったように火の消えた煙草を人差し指と親指で宙へ飛ばしながら閖は笑った。
「そんなの、どこで覚えたの」
「俺の舌は俺を金銭的に助けてくれてるおじさん専用の灰皿なの」
「なにそれ、意味がわからない」
「これ、良いんだよ。舌にじゅっと押し付けられる瞬間俺はこの人より下等生物なんだなって思い知らされるの」
「相変わらず考えることがこえーよ」
雪は後ろを向いて先程見たばかりの衝撃的な映像をかき消そうとする。
「ねえ雪」
ベッドの上から雑誌を放り投げ、腕を雪の首に回しながら閖は囁いた。お気に入りの音楽雑誌をぞんざいに扱われ一瞬むっとした雪だが、回された閖の腕に目をやると横に並んだ傷跡の中に幾つか真新しい傷を見つけた。大方昨日か一昨日切ったものだろうと見当をつけ、再度スマホに目を戻す。閖の猫撫で声は雪の耳に障る。あまりに毒気のこもった甘美な響きだからだ。閖はいつも自分を誘惑しようと策を巡らせている。雪はそれが嫌で仕方なかった。それに乗ってしまう、自分自身の浅はかさが、その愚かさが。
「セックスしようよ」
閖の人差し指が雪の顎から輪郭にかけてをそっとなぞる。その指の動きは滑らかで、雪は「ああ、この男に自分は一生振り回され続けるのだな」と感じる。閖の指の動きはそれほど絶対的な響きを持っていて、その官能のこもった響きに抗えない自分の欲を恨めしく思うのだった。
切ないほどに甘美な口付けに、雪は思わず目を閉じた。絡み合う二つの舌のピアスはかちゃかちゃと音を立てながら情事の始まりを盛り上げる。閖の舌に残った灰の味に思わず顔をしかめるも、それ以上に閖のやわらかい舌が雪の劣情を誘う。口を離し、雪の上に跨った閖は上着を脱ぎ捨てる。乳首に通った二つの小さなピアスは蛍光灯の下で無機質な鈍い輝きを放っていた。晒された病的なほどに白い裸体は輝くように内側から光っている。雪のシャツのボタンを一つずつ外していく閖の腕に、雪は十字の傷を見つけた。傷跡は肉肉しく赤光りしており、真新しいということは嫌でも分かる。
「趣味悪りー傷」
「昨日新しく仲間入りしたんだよ、かわいいでしょ」
「趣味悪い」
「ひどいなあ」
瘡蓋も出来ていない傷跡を引っ掻きながら閖は頰を傾げて微笑んだ。伏せられた長い睫毛は零れ落ちそうなほど大きな瞳を余すことなく縁取っている。密集した長い毛と瞳はまるで一つの生き物のように見えることがあって雪には恐ろしく思えた。
「そうだ、雪にも同じのつけてあげる」
俺からのプレゼント❤︎
そう言って閖はベッドの淵に置いてあったカッターを手に取った。絶望的なタイミングで枕元に置いてあったカッターに雪は顔を白くした。昨晩偶然使ってからペン立てに戻さなかった自分をここまで呪うことはこの先一生を通してもないだろう。
こいつならやりかねない。
閖は焦る雪を気にもせず見せつけるようにカッターの刃を出していく。かちゃ、かちゃとゆっくりと姿を現わす刃を感じて恍惚に染まる閖を見上げながら雪は両手でカッターを奪おうと腕を伸ばした。ひらりとそれをかわした閖だったが、揉み合いになったとあるタイミングで雪は閖のかわいそうなほどに細い腕を捉える。抵抗した閖が意図せず雪の頰をカッターで切ってしまったのは一瞬の出来事だった。流れ出す血の感触で我に返った雪は閖の腕を離し自らについた傷跡をなぞる。紛れもなく、それは血で、小さな傷にも関わらず雪の顔は一瞬で青ざめた。
「閖っ、おまえ!」
「なあに、雪が悪いんだよ。暴れるから」
悪びれた様子もなしに落としたカッターを拾い上げ、両手の平を上に向け閖は口を開いた。ベッドの上にカッターを置き、両手をベッドにつけ、閖は雪に顔を近づけた。
「だいじょうぶ、俺が綺麗にしてあげるから」
舌先で器用に傷跡をなぞり、次に閖は大胆に傷口を舐めあげた。閖は「ね?」と笑いながらちろりとピアスのついた舌を出す。その常軌を逸した行為に雪は唖然として閖を見つめるも、少しして我に返り溜息を吐きながら目を閉じた。閖は依然として傷口を舐めたりした先で突っついたりしている。閖の舌が触れるたび傷口はじんじんと鈍い痛みを発する。その傷が浅いのか深いのかさえ雪には分からない。閖は血が止まるまでそうしているつもりらしく、おもしろがって子猫のように傷口を舐めていた。諦めて閖の身体に手を這わすと、突然の口付けに雪は戸惑いの色を見せた。いきなり割って入られた舌からは紛れもない血の味がする。自分の血だと思うと、雪はどうしようもなくぞっとした。そんなことを躊躇いもなくしてくる閖にも、それを受け入れている自分自身にも。
「ねえ雪、俺刺青いれようかな」
ここに。そういって閖はカッターを拾い、身体を少し反らせながら刃の先で臍の下を軽くなぞった。痩せ細り骨ばった身体から今度は血は流れない。
「ファッキンビッチとかって。意味はよくわからないけど、どう?」
「だから、趣味悪い」
「雪はそれでも俺と寝てくれる?その頃には 俺のあそこもガバガバになってもう雪をいかせられないかもよ?」
悲壮感漂う閖の笑みに、雪は思わず顔を逸らす。この男は全てをわかってる上で俺にこんなことを聞くのだ。雪は閖のそういうところが嫌いだった。嫌いで、それでいてどうしようもなく好きだからだ。
「でも大丈夫だよ、グーでここ、ちょっと強めに殴ってくれればすぐ締まるから。これは実証済」
試してみる?
閖はカッターで鳩尾を指す。雪は目を伏せながら脱がされかかったシャツを脱ぎ上半身を露わにした。ひゅう、と閖は口笛を鳴らすと同時に自らのベルトに手を伸ばす。これが劣情なのか、閖への哀れみなのかは雪にも分からない。どうしようもない後ろめたさの中に快感は生まれることを雪は知っていた。
二十本とも綺麗に黒く塗られた閖の爪の、足の薬指だけがはげかかっている。
その理由を、雪は知ることはない。
追記
次の日雪は小学生みたいに頰に絆創膏を貼って投稿しましたとさ。
お死枚